やんばるの歴史

北山文化圏‐琉球王国時代における北山王統の勢力圏

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「山北王トハ、今帰神(仁)按司也。是モ、首里ニ背テ、羽地・名護・国頭・金武・伊江・伊平也ノ、数国ヲ討従ヘテ、自ラ山北王トゾ申シケル」 (琉球王国最初の正史書とされる『中山世鑑』より)

北部地域が歴史に登場するのは、古琉球の時代に遡ります。琉球王国が統一される以前の三山時時代とよばれるころ、琉球王国が統一される以前は、沖縄は北山、中山、南山にわかれ勢力争いが続いていました。北山王は今帰仁を中心に羽地、名護、国頭、金武などの地域を支配下に収めていました。北山王の居城は平成12年に世界文化遺産に登録された今帰仁城跡です。北山王統は中国への朝貢を15回行うなど、当時自立した経済圏を形成していたことがうかがわれます。

その後、1429年に琉球王国が統一されると、北山の勢力圏であった恩納、金武、久志、名護、羽地、本部、今帰仁、大宜味、国頭の9間切(地方行政単位)が首里王府の管理下に置かれます。そのころは農林産品の生産地として王国の経済に貢献しました。なお、琉球王国第二尚氏王朝の創始者である尚円王は伊是名島の出身として知られています。


北はクンジャン(国頭)やんばる、南はチン、ウンナ(金武、恩納)やんばると呼ばれた

沖縄大百科事典(沖縄タイムス社)では、やんばるは、「山原」として、下記のように解説されています。
沖縄本島の北半分を占め、頭部をなしているのがやんばる=山原である。 沖縄本島北部、名護や国頭郡の俗称。俗に島尻を下方(シモカタ)、中頭を田舎と呼ぶのにたいして、国頭を山原という―

やんばるのについての詩
海岸まで迫る山並みと、入り組んだ海岸線に沿ったわずかな平地に小さな部落が散在しています。部落間は地形によって阻まれ、陸上の交通が発達する以前は互いの交流が少ないため強固な村落共同体が作られたといわれます。

豊かな自然の恵みを受けつつも、時に厳しい自然に対して人々は力を合わせて立ち向かい、共生してきました。 海外移民の多い地域としても知られ、山原に生まれ育った進取の気質は海外雄飛に発揮されました。

また、沖縄の政治、経済、文化をリードする多くの人材を輩出しています。 沖縄線を経て、日本本土復帰(1972)や沖縄国際海洋博覧会(1975)を契機に道路整備が進み、地域間や中南部からの往来も便利になり、交流も盛んになっています。

資料:「やんばる100年」那覇出版社 1981より

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